ナスビーニョの日常

留学して分かった、キリスト教は自分に合っていないと感じた理由

こんにちは、ナスビーニョです。今回は、アメリカに留学をしてキリスト教について感じたことを書いていきます。

この記事はあくまで個人の所感であり、キリスト教を批判するものではありません。また、人には特定の宗教を信仰する自由、宗教を信仰しない自由が認められているので、記事の内容に過度に左右されず、自分の信条を大切にしてもらえたらと思います。

キリスト教とは

キリスト教者でないものが、キリスト教について語るのはナンセンスなのでここでは他サイトを活用させていただきます。

キリスト教には色々な大事な考えがありますが、こちらのサイトから大事なものを引っ張ってきました。

1. 天地創造(神によって創造された世界・人間)

世界と人間は、神によって創造されたものであるという世界観をもっています。

2. 原罪(アダムとエバの物語から知る、神と人の関係)

神が初めに創造した男女・アダムとエバが、神に食べることを禁じられた善悪を知る木の実を食べたという物語を通して、人の自己中心性という罪、神への裏切り・信頼関係の断絶を示しています。

3. 人間の力だけでは救われない(律法に従った生き方)

神と人、人間同士の関係において大切に守るべきルールが、神から与えられました。イスラエルの民は、これをさらに細かな律法にして守ろうとするのですが、守ることのできない姿や様子が描かれています。

4. イエスの登場と、その生涯のメッセージ

イエスは人びとに対して、神の思いを知り生きること、また、自分を愛するように人びとを愛するようにと教え、また、人びとはキリストを通して、神の呼びかけ、語りかけを聴き、従うようになりました。

5. イエスの十字架と復活

神が、この世界を愛してイエスをこの世に送ってくださったこと。神が、愛するご自身の分身・子であるイエスを十字架にかけ、人々の罪を赦そうとしたこと。神は、そのイエスを復活させたこと。

6. 信仰によって救われる

神の存在があることを受け入れるならば、罪のゆるしにあずかり、どのような人でも神と人との新たな関係に生きることができると教えています。

7. 弟子達から拡がり伝わった信仰共同体=教会

神の愛とゆるしを心に受け止めて生きようとする人びとが日曜日に集って聖書の教えを聞き、また、神に自分自身を向けようとするのが、キリスト教会の礼拝であります。

引用サイト

http://www.nskk.org/osaka/christ.html

 

ここからは、僕自身が理解できている範囲(自分なりの解釈)で解説をしていきます。

先ほどはキリスト教について語らないと言いましたが、もしかするとキリスト教が合わないと感じた理由は僕の解釈の仕方にあるかもしれないからです。

1. 天地創造について

これはかなり分かりやすいと思います。キリスト教の世界観では、この世界のあるゆるものと人間は神が作りだしたことになっています。

2. 原罪について

原罪とは、生まれてきた時点で人間は生涯背負うべき罪があるというような考えです。これは、アダムとイブが禁断の果実を食べてしまったというエピソードから来ているそうです。

3. 人間の力だけでは救われないについて

ここでは、神からルールが与えらるのですが、人間だけでは守り切れず、罪を犯してしまいます。そこで、その罪から解放されるために、神を信仰することの必要性が語られています。

4. イエスの登場と、その生涯のメッセージについて

イエスについてはこの文章のままであると思います。

5. イエスの十字架と復活

イエスが復活したことが、キリスト教でイエスが神の子とされている所以とされています。

また、イエスは神のメッセージが唯一分かる人として、信仰されることになります。

6. 信仰によって救われる

これは原罪という考え方に関連があります。人々は生まれながらにして罪を背負っているので、信仰することでそれを許してもらおうというものです。

7. 弟子達から拡がり伝わった信仰共同体=教会

これについてはあまり言うことがないと思います。キリスト教では信仰し続けることが、神から許しを得ることが出来る、また啓示を受けることが出来るとされているので、毎週のお祈りは大切となっています。

なぜ自分に合わないと感じたのか

一番大きな理由は一神教であることに違和感を感じたことです。

一神教とは「ただひとつの神的存在者のみを認めてこれを信仰する宗教」のことを指します。キリスト教も1人の神様を基に成り立っています。もう少しいうと、神様の言葉を神の子であるイエス・キリストが人々に伝えているという構図になっていると思います。

ただ、僕の頭の中ではどうもイエス・キリスト=神という風に捉えられる気がしています。(三位一体という考えでは、イエス・キリストも神という風になっていますが、複雑で理解で出来ていません。)

キリスト教の中では、神の言葉は理解できないとされていて、イエス・キリストが伝えることになっており、すなわち神の教えを乞うにはイエス・キリストの教えを信じるしかない、というような印象を覚えました。

一神教のどこに違和感を覚えたかというと、人生の全ての指針を1つの神に委ねているところだと思いました。もしくはその神様=絶対という考えが合わないのかもしれません。

ここまで生きてきた中で、絶対というものに出会ったことがないからかもしれません。

絶対が壊れた時が怖いのだとも思います。本信じれるのは自分くらいの気概で行きたいところです。

また一神教に違和感を感じるもう一つの理由は、自分のどこかでよろずの神を信じているのかもしれません。自然のものには全て神が宿っているという考え方の神道に似ているかもしれません。

例えば、今日あまりついてない日だったと思ったら、神様が自分に味方してなかったのかなあと思ったりします。

ただ、それはイエスを指しているわけでもなく、毎回曖昧でおそらくその神というのは変わっていると思います(自分でもよく分かっていませんが…笑)。例えば、学問の神とか。家の神とか…。

都合の良い存在かもしれませんが、逆にその程度の関係が自分に合っているのかなと思います。

以上、キリスト教に違和感を感じた理由でした。

最後にひとこと

最後にもう一つ個人的な理由があります。それは、現地で出会ったキリスト教を信じている人が普段はとても優しいのですが、イエスの話になるとかなり興奮したように話したのに少し引いてしまったというのがあります。

その人は親切心で僕にキリスト教のことについて語っていたので、何も悪いとは思いません。それよりも、僕が現地の文化に上手く適応できなかったという側面があると思います。

しかし、留学に行ったからこそ自分の宗教観に気づけたのだとも思っています。日本だとあまりこういう話はしないですよね(笑)。自分の宗教観に気が付かせてくれたという意味ではすごく感謝しています。

最後にもう一度。

僕はキリスト教は合わないなと感じましたが、人によって全く違うと思います。

キリスト教は全くだめだと最初から決めつけるのはもったいないので、興味がある方は聖書とかを読んでみてもいいかもしれません。(ちなみにですが、聖書は世界で一番読まれている本です。僕も少し読みましたが、人生においての模範となるようなことが書いてあり、とても良いと思いました)

もし、何か自分でこういう考えを持っているというのがあればコメントでお願いします。

ここまで読んでいただきたありがとうございます。